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わたしの中越大地震体験記

車で過ごした十日間


恐怖の一夜    2006.10.23 (土) PM 5:56

 

夕飯の支度に取りかかった時いきなり”ガタガタッ”と大き  な揺れ、一瞬何が起きたのか分からない。カチッと音を立て  て電気が消えた。    

 
  地震だ
とっさに柱にしがみついた。暗くて何も見え ないが、ガチャガャガチャッと食器が落ち始める。 ガスをつけていたので、「消さなくては」と思った瞬間、自動的にガスが消えた。
「どこが一番安全?」 「テーブルの下!」と、必死でもぐりこむ。 このとき家にいたのは私一人。 「こんなところで死んでたまるか! 大丈夫、大丈夫・・・・」 と自分に言い聞かせながら、椅子にしがみついて揺れがおさまるのを待った。

だが、少したつとまた強い揺れが押し寄せ恐怖の連続。裏庭の方で外に逃げた人たちの声が聞こえてきた。
「外にでなくっちゃ」 と思っても、めまいの病気で退院したばかりの私にはとても一人で出られない。
そのとき 「お母さんいる?」と娘の声。
「いるよ、テーブルの下!」と声を張上げる。
「そこにじっとしていてね!」 と娘が叫んだとたん、ものすごい揺れがまた襲ってきた。
必死で娘の名前を呼んだが返事がない。真っ暗で家の中がどうなっているのか、家が壊れてしまっているのかさえも分からない。娘の安否が気がかりで、高鳴る心臓の鼓動を抑えるために「ナンミョーホーレンゲキョ・・・」と唱え救いを求めた。日蓮宗の信者でもないのに、なぜ「ナンミョーホーレンゲキョ」が出てきたのか、ともかくこの先どうなるか分からない恐怖心に藁をもつかむ心境であった。

しばらくして「お母さん、外に出て! みんな空き地にいるから」と娘が懐中電灯の明かりを照らしながら叫んだ。 「分かった、今行く!」と、無我夢中で素足で飛び出た。
「お母さん、靴!」(自分の慌てようが今思うと恥ずかしい)
「なるべく真ん中を歩いて・・・」とフラフラしている私を、町内の人たちが集まって避難している場所に誘導してくれた。

娘は長岡の温泉に友達と行き、帰ってきてから、犬の散歩途中で地震に遭遇した。一瞬ドーンと前に投げ出され、ダンプにはねられたのでは、と思ったという。 そして、家に母がいるのでは?と急に心配になって駆けつけてくれた。私がいることを確認し、少し離れたところの車から懐中電灯を探し、たて続きに襲ってくる余震に脅えながら助けに来た。 嫁に行く日を目前にする娘の最高の親孝行であった

町内の人たちが50人ほど東小千谷小学校前の空き地に固まって避難していた。 次々と襲ってくる強い余震に、電柱がいまにも倒れてきそうで、揺れるたびに悲鳴が聞こえる。恐怖と寒さに震えながら、みんなで励まし合い早くおさまるのを祈った。
 新潟へ出張に行っていた夫が、私たちを探し当てて来たのは、地震発生から二時間後。長岡駅で普通電車に乗り換え、発車一分前に地震に遭い、駅員から全員降りるようにと言われ、バスで迂回しながらやっと小千谷市役所にたどり着き、そこから歩いて来たという。ともあれ愛犬・プルーを含め、家族全員無事であったことが何よりであった。

 病み上がりの私が寒さで震えているのを見て、ご近所の方が車の中に入れてくだった。ラジオニュースは、絶え間なく震源地の小千谷市近辺の惨状を報道して大騒ぎ。遠くに離れている子どもたちや親戚、友だちがどんなにか案じているだろう・・・だが携帯電話も通じなく、無事でいることを知らせる手だては何もない。

「お母さん、お姉ちゃんたちにメールで、みんな無事にいるって言ったから安心して」と、町内の人たちと肩を寄せ合って寒さをしのいでいた娘が告げに来てくれた。 いま自分の身に降りかかった大地震が悪夢であってほしいと願ってはみたものの、現実はどうすることもできない。  “一寸先は闇 ”とは、まさしくこのことを言うのであろう。
長いながい恐怖の一夜が過ぎた。


10月24日 () 曇りのち晴れ

夜明けの空が異様である。雲の色や形、流れがいつもと違う。以前何かの本で見た地震雲とそっくり。

あの激しい揺れで周りがどうなっているのか心配したが、見た目はさほど変わっていないのでホッとする。  ところが、娘に支えられ亀裂の入ったデコボコ道を歩いて家の前まで行くと、屋根瓦が散乱している。玄関を開けると下駄箱から靴が投げ出され、大事な花瓶や置物がメチャメチャに割れてガレキの山。台所は茶箪笥がテーブルに横倒しになり、流しの上の作り棚からも食器類が落ち、足の踏み場もないほど無残な有様である。

「お母さん、よくここで助かったね」と娘から言われ、テーブルの下で「地震なんかに負けてたまるか!」と踏ん張っていた自分の姿を想像した。
今の私の体調ではとてもこの後片付けなどできないと思い、夫と娘にまかせて車で避難生活をすることにした。幸い娘が嫁に持っていくために買った軽自動車ダイハツの「タント」は座高も高く、シートを倒すと足を伸ばして二人が寝られるほどのスペースがあるので、とても助かった。

空き地で避難している人たちが知恵を出し合い、朝食の準備が始まった。シートを敷き、テントを張り、ブロックでかまどをつくり、枯れ木を集めて大きな鉄釜でご飯を炊いた。何のお手伝いもできなかった私にも分けてくださった。炊きあがりの真っ白いおにぎりの美味しかったことは終生忘れない。日ごろお付き合いのない人たちが輪(和)になり、励ましあう姿を見て、人間はどんな逆境でも助け合う心と、知恵があれば何とか生きていけるものとつくづく思った。

午後から車を線路脇の安全な場所(知合いの土地)に移してもらい、ここで当分過ごすことになった。ここでも近所の人たちがテントを張り、各自の家から食材を持ってきて煮炊きをしていた。車にいる私を気遣い、美味しいお汁など持ってきてくださり、嬉しく思う反面、何もできないでじっとしている自分がもどかしかった。

小野坂庄一さんから「家がダメ 庭で野宿」というメールが届き、心配になって電話すると、「地盤が崩れ、家が傾きもう住めない、今度大きな余震が来たら完全に壊れるので、とにかく古文書を出している」と言う。どうしてそんなことに・・・と愕然。

ラジオで、孤立している山古志村の住民を自衛隊のヘリが救出し始めたと報道される。多くの家が全半壊し、雪の季節に向かい住むことが不可能なので、長島村長が村民を説得し、全員で山を降りることになったという。  

山古志村でお世話になった酒井省吾さん、佐藤誠一さん、坂牧宇一郎さんたちの安否が気がかり。酒井さんが昨年の11月に生涯の思いをこめて造られた良寛碑はどうなったであろう。みなさんの無念さがひしひしと伝わってくる。 以前のように元気だったら、困っている人たちの手助けが出来るのに・・・ いま私が出来ることは何だろう?
 

地震の記録を残そう!

と、思いついた私は、早速車の中でニュースを聴きながらメモを取り始めた。そして地震直後で新聞が配達されないので、東京や仙台に住む娘たちに新聞を取っておくよう連絡する。

《この日の主なニュース》

・ 23日午後5時56分、中越地方を震源とする強い地震があり、小千谷市で震度6強が3回観測され電気、ガス、水道、電話といったライフラインが全てストップ。

・ 多くの死傷者があり、塩谷地区の東山小学校児童3人が家屋倒壊の下敷きになって死亡

上越新幹線とき325号が、長岡駅の手前7キロほどの高架橋で脱線。開業以来初めての出来事だが、乗客 が少なかったことも幸いし、けが人もなく奇跡的に大惨事を免れる。

・ 在来線はすべて止まり、高速道路や国道が各地で分断される。

・ 川口町の国道17号線和南津トンネルが崩壊し、通行止。

妙見堰で山崩れが発生し、土砂が信濃川に流出し通行不可能。

・ 道の至る所が陥没しデコボコ状態。特に新しく補修した箇所はすべてダメ。

・ 新潟銘醸の酒蔵が倒壊。高の井酒造も被害があったもよう。

・ 川口の新しく出来た温泉施設が崩れそうなので、川口の住民に避難命令がでる。

・ 強い余震が続き、台風による降雨で地盤が緩んでいるので、気象庁が土砂災害に注意との呼びかけ。

・ 気象庁が「平成十六年新潟県中越地震」と命名

山古志村で孤立した村民を救出するため自衛隊のヘリコプターが始動し、ピストン輸送で、長岡商業高校のグランドに搬送。


10月25日 (月) 晴れのち曇り

昨夜は軽自動車「タント」に家族3人と近くに住む叔母、おまけにプルーも一緒だったので、ぎゅうぎゅう詰め。さすが大人4人と犬は無理と、夜中に娘が家に残してある車に行ったが、その後の余震で怖くなり戻ってきた。

早朝、近くのセブンイレブンが店頭で昨晩から販売し始めたといって、娘がおにぎりと牛乳を買ってきた。(限定販売でおにぎり一人六個まで)さすがコンビニはたいしたものだ、と感心しながら朝食をとる。

すぐ近くのガソリンスタンドでは、燃料を買い求める人たちの車が、国道脇に長蛇の列をなしている。ガソリン不足のため、一台16リットル2千円で現金払いとされていた。それでも車で生活するものにとっては、大げさかもしれないが、砂漠で水を得たような思いである。 コンビニとガソリンスタンドさえ開けば、何とか生きていかれるものと、現代社会の縮図を垣間見たような気がした。

10月26日 (火) 小雨のち曇り

朝から寒い。 地震の際、慌ててテーブルにもぐりこんだ時に、ガラスの破片で足首を3センチほど切った。幸い避難した場所に救急用具を持った人いたので、消毒などの応急手当をしてもらった。 かなり出血し、深い傷のような気がしたが、現状では病院にいくことすら容易ではない。魚沼病院、小千谷病院自体も被害が大きく、外にテントを張って、ケガ人や病人の応急処置に当たっているとのことであった。

勤労青少年ホーム(東体育センター)に日赤の救急隊が来ているという情報が入ったので、娘の車で診てもらいに行く。 勤少前の広場には避難している人たちの車でいっぱい。玄関前に旭町々内会のテントが張られ、友人のSさんをはじめ町内の主婦たちが救援物資の整理に追われていた。玄関に入ると足の踏み場もないほどダンボールの上に座布団や毛布が敷き詰められ、大勢の人たちでごったがえしていた。 トイレも共同であり、水が出ないので男の人が汲んできた水を、用を足した人に手渡していた。

石川県金沢赤十字病院の医療チームの医師2人と、看護婦5名ほどが体調の悪い人やケガをした人の診療に当たっていた。私がケガの治療をしてもらった医師は、偶然にも名大学医学部卒業後、愛知県済生会病院に勤務され、私の実家のすぐ近くに住んでおられたという。帰りがけに「地震に負けないで頑張ってね」と笑顔で励ましてくださった。

午後2時ごろやっと電気が点き、電話も開通。セブンイレブン東店が今日から店内で販売開始。 午後5時50分、車の中から上越線の電車が通過していくのを見る。やっと開通!?  線路向こうの山寺地区の人たちは、皆さん避難しているのか電気が一つも点いていない。闇夜に雨がしとしと降って寒くなってきた。

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石川県金沢赤十字病院の医療チーム

《午後六時のニュースから》

・ 震災後4日目の今日も体に感じる地震が27回あり、震度6強が起きる可能性40パーセント。今日から雪まじりの雨。

地震による死亡者31人、ケガ人3400人余

・36か所孤立(うち小千谷市18か所)正午現在34の市町村で103342人が避難

・ 長岡市内の2か所に約400戸仮設住宅を 建設し、全村避難した山古志村の住民を受け入れる予定。

水道は小千谷市、川口町が全世帯断水。ガス復旧見通し無。電話は殆どの箇所で復旧。上越新幹線は復旧の見通し無

・ 新潟県の対応が、特に現場に近いほど遅い。自衛隊の要請も遅かった。阪神大震災の教訓が生かされていない。

・ これまでの揺れで二次災害が起きないよう注意。

・ 昨日から寒気が入っているので、避難生活には十分気をつける。

和南津トンネル崩壊でいまだ通行不能

・ 25日早朝の強い余震で、小千谷市東栄一の酒造会社「新潟銘醸」の土蔵が倒壊。けが人なし。

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随所で見られる地震の被害(中央・朝日川の決壊で路上に水が溢れる) (右・国道117号線の崩落 撮影・関俊和

10月27日 (水 ) 小雨のち曇り

寒気が入り寒い 車の中で暖かくして眠ったが、夜中に3回ほど震度3の揺れがあり、目がさめる。

《今日一日のニュースから》

・10時40分、震度6弱発生。震源地は広神村で小千谷市・長岡市震度5弱。長い揺れ

・ 東栄一丁目のサクライ写真館が倒壊し、中に女性が一人いたが無事救出。(後で分かったことだか、サクライ写真館ではなく、隣の小林治療院が倒壊)

・ 男性が電柱につかまって揺れがおさまるのを待ったが、直後に脳卒中になり救急車で運ばれた。

・ 長岡駅の構内が倒壊する恐れがあり危険状態。

・午後2時40分、妙見堰の山崩れ現場から小出町佐梨の皆川貴子さん(39)長女真優ちゃん(3)長男優太ちゃん(2)の生存が確認され、優太くんがヘリで長岡日赤へ搬送される。捜索は、東京消防庁が96年に起動したハイパーレスキュー隊が人命探査装置シリウスを使って行われ、警視庁の救助犬が激しく吠えたので、隊員たちが土砂を手作業で取り除き、抱き上げての救助。

・ 午後3時10分、地震発生から92時間後、奇跡的に助け出された優太ちゃんが長岡赤十字病院に無事到着。

・ 午後9時30分、母親の貴子さん日赤にて死亡確認。真優ちゃんは未だ救出できず。

・ 小泉総理が長岡と小千谷の被災地を視察し、小千谷小学校の避難所に訪れ、子どもたちの肩をたたきながら励ます。

・ ボランティアが全国から176人集まる。

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妙見堰の崩落現場(撮影・佐藤諭氏

(現地で取材に当たった記者の声)

・ 物資より人手が足りない。周辺の自治体が中継地点として物資など取り扱ったらどうか。当の自治体は忙しくて大変。

・ 数十キロ離れている所が普通の生活をしている。そういう人たちが何らかの形で手助けしてほしい。 【東山、山古志村の人たちの嘆き】 ラジオから小栗山の間野睦男(屋号大和屋)さんの切々とうったえる声が流れてきた。

「牛を残して山を降りるわけにはいかない。家も壊れてメチャメチャ・・・」 「錦鯉を見殺しにするわけにはいかない。何百年も先祖が守ってきた伝統を絶やすわけにはいかない・・・」 「そのために東山に残る人たちもいる。鯉のえさもやらなければ、電気が通らないので水の循環が出来ない、鯉が死んでしまう。外人バイヤーとの取引も、まだお金をもらっていないので、この先どうしていいのか見当もつかない・・・・」

昨年、小千谷祭りのイベントで牛の角突きが行われた際、長女と一緒に小栗山闘牛場へ見物に行った時のことを思い出す。間野睦男さんがわざわざ席まで来て、初めて見物する私たちに色々解説してくださった。そしてご自慢の闘牛の綱を引き、嬉しそうに土俵に降りて行かれた。間野さんは『小千谷文化』で「最後の丁稚奉公大和屋睦男」と題し、広井忠男さんが掲載されているご本人である。

震災で闘牛や錦鯉の里である山古志、東山は壊滅状態。棚田も崩れ、赤土が出てまる裸。写真家がこよなく愛した美しい山古志の風物詩も一瞬のうちに消え去ってしまった。

今日は一日中十数機のヘリが皆川親子の救出を見守るかのように、鉛色の空に轟音をたてて旋回していた。夕方になると、放射線のようにして、ライトを妙見堰方面に照らし点滅していた。 午後3時20分頃から立て続けに震度3の揺れがあり。     

10月28日 (木) 晴れ

昨夜も娘とプルーと一緒に軽自動車「タント」で眠る。幸い車の中が小さな部屋になっていて、足も伸ばすことができ、毛布も足りているのでぐっすり眠ることができた。

《朝のニュース》

・ 夜間から明朝にかけ、この秋一番の冷えにより二、三度まで下がるので、くれぐれも健康管理に注意。

・ 余震活動が活発になっているので、震度6強もありうる、崩れた場所や倒れそうな家屋には絶対に近寄らないように。

朝から小春日和で、真っ青な空がどこまでも拡がっている。今日も朝から自衛隊や報道機関の小型飛行機・ヘリが真優ちゃんの救助作業を見守って旋回している。 家で倒れた家具や、壊れた食器などの後片付けしている夫や娘に申し訳ないと思いつつ、私は車の上に布団を干し、愛犬プルーと一緒に線路脇で、日向ぼっこしながらスケッチを始めた。暖かい太陽の日差し浴び、命の洗濯をしていると、地震があったことなど忘れてしまいそう。

秋晴れや大地震など夢のごと
余震なく石にはりつく赤とんぼ

お昼過ぎ、「山寺の公会堂前で健康相談の巡回車が来ているから、具合の悪い人は来てください」と、市の広報車が廻ってきた。けがの治療をしてもらいに、フラフラしながら電車の通らない踏切を渡って救護車まで歩く。途中地割れがあったり、マンホールが隆起している箇所もあり、地震のつめ跡を見せつけられた。

大阪府立病院の医師や看護婦5、6人が、体調の悪いお年寄りや風邪をひいた子どもたちの治療にあたっておられ、私はケガの治療後血圧を測ってもらった。上が170、下が110と高いので安定剤をもらう。

その後家の様子を見に行くと、ひっきりなしにかかってくる電話の応対で、片付けていられないと、夫と娘が少々不機嫌。連日テレビ等で悲惨な報道がなされているので、電話の開通と同時に親戚やお友だちが一斉に掛けてくださったのだが・・・。

夕方近くになって、「自衛隊による仮設のお風呂が東小グランドと、勤少に作られたので、希望者は来てください」というスピーカーが流れ、夫と娘が早速入浴に行った。震災以来お風呂に入っていないので、ありがたい話だが、私は足のケガが治るまで入られない。

夕方5時40分ころ、市役所の勤務を終えた吉原昌隆さんが娘の案内で車のところまで来てくださった。やっとご自分が住む川口町まで通れるようになったと言い、自分の家はなんとか建っているが、近所が大変な様子で、大家さんの家も傾き、スーパー安田屋が全壊したとのこと。このたびの地震で、最も被害の大きかった川口町住む吉原さんや服部文枝さん、桜井兵治さんたちを案じていた矢先のことであったので、吉原さんの無事が確認できて嬉しかった。

夜、親友のTさんから名古屋で手配してもらった衣装箱60個が、西濃運輸長岡営業所止めで明日着くという知らせが入る。

全壊の家から、書類・写真、古文書など、死にもの狂いで運び出している小野坂さんから頼まれた品である。衣装箱も地震直後みんなが買い求めたため、小千谷では手に入らなく、名古屋から取り寄せてもらったのである。

駐車場の家主Uさんが、車で避難している人にといって、日本赤十字社からの「安眠セット」を届けてくださった。ラベルに、『この品は日本小型自動車振興会のオートレース公益資金による補助金を受けてお贈りするものです』と書かれている。地震に遭わなければ、こういった形で収益金が使われていることも知らないで通り過ぎてしまう。 そういえば、昨日の夜はカレーショップから、大盛りのカレーどんぶりが避難者にふるまわれた。いろんな形で全国の人たちが支援してくださっていることに心より感謝する

《午後七時のニュースより》

・ 真優ちゃんが車の中で死亡確認され、救援活動が打ち切られる。優太ちゃんは脱水症状も改善され、「スイカが食べたい、おまんじゅうをいっぱい食べたい」と言って、元気を取り戻している。

・ 今日は震度3が6回あり、この先当分震度6強の恐れが続く。

・ 堀之内役場からは1100人が避難生活をし、電気、水道、ガスの復旧はまだで、明日は仮設の風呂ができる。体調の管理に十分注意するようにとのこと。

・ 小千谷総合体育館に3000人以上の人が避難。使い捨てカイロと毛布が配られる。アルビレックス新潟のサッカー選手が見舞に訪れる。

・33000世帯が断水し、ガスの供給も止まったまま。来月七日頃までにはガスが復旧できる見通し、川口町は被害がひどいので未定。

・ 今日現在、地震による死亡35名(小千谷10 長岡6 川口町5 堀之内町4 山古志村2) 家屋の全壊293 半壊398 一部損壊5350 倉庫等の損壊2555 火災一一 がけ崩れ216

・ 上越新幹線が東京―越後湯沢間のみ開通。

・ 今日は震度3が6回、体に感じるものが30回あり。  

10月29日 (金) 快晴

雲ひとつなく抜けるような青空が広がっている。今日も朝から小型飛行機とヘリが上空に円を描いている。下界で二百年に一度と言われる多発性の大地震があったなんて、嘘のよう。自然の成せる業は測り知れないものがある。 「人間生きちょるだけてまるもうけ」阪神大震災をテーマにしたNHKの朝ドラ「わかば」で、南田洋子演じるおばあちゃんの口癖がふっと頭をよぎった。ほんと、「生きていさえすればなんとかなるさ」

我が家は大屋根の瓦が破損し、台所、風呂場、トイレの壁やタイルがいたるところで壊れているが、住むことはできるようだ。 家に行ってみると、玄関のサッシ戸に大きな文字で「要注意」と書かれ、 “屋根瓦が落下する危険があり”と記入された黄色い紙が貼られていた。家屋の被害調査が行われ、外観で危険な家屋は赤紙、要注意は黄色、心配のない家屋は緑色の紙が一軒一軒貼られている。これは『応急危険度判定士』が調査したもので、今回の地震で「危険」「要注意」が四割を占めたという。

※『応急危険度判定士』とは、都道府県が研修を受けた建築士らを認定。東海地震の恐れがある静岡、神奈川県以外は阪神大震災以降に認定され、全国に約十万人。二次災害を防止するため、余震などによる倒壊の危険性を判定する。被災者が住宅などに入れるか、構造的被害や落下物の危険性などを見る。り災証明のための調査や建物の恒久的使用の可否は判定しない。(10・29朝日新聞による)

親戚や友だちから沢山のお見舞い、救援物資が届き、阪神大震災で十年前被災した神戸のHさんからは、体験者としての応援メッセージと、数々の品が送られていた。早速皆さんに電話やはがきでお礼を述べる。

《今日一日のニュースから》

・ 一人だけ助かった優太ちゃんは、日赤の治療室で元気を取り戻し、食欲も出てきたとのこと。その一方「お母さんは? 真優ちゃんは?」と聞く。

・ 広神村役場より、地震の影響で畑に大根が飛び出ていた。また米などが盗られる被害があったとの報告。

・ 今日現在、84000人余りが37か所で避難。小千谷市では22000世帯で断水。ガスも止まっている。携帯電話は小千谷市の一部で使えない。

・ 住民2200人の山古志村の人たちが一時帰宅。闘牛の世話や、錦鯉のエサやりに339人が自衛隊のヘリと自治体の車で行き、滞在は二時間と決められる。道路の亀裂、川の濁流(土石流)などで変わり果てた村を見て「予想はしていたが、これほどひどいとは」と衝撃を口にする村民たち。明日で一週間になるが、あまりにも大きな被害で復旧の見通しはない。

・ 上越新幹線トキ325号は脱線したままで再開の見通しなし。

エコノミークラス症候群(飛行機など狭い座席で長時間いると、足の静脈に血の塊ができ、肺動脈にたまると、呼吸困難や心肺停止を招く症状)で亡くなる人が出ているので、車で避難生活している人は、足をこまめに動かすこと。

・ 住宅に関する相談は小千谷市都市開発課へ。心のケア相談窓口が開設。出産を控えている人は、厚生連魚沼病院へ、母子手帳がなくてもよい。緊急の場合はすぐに行く。

・ 余震は順調に減少しているが、今後も震度6強の恐れあり。今しばらく要注意。

・ 住宅の中は散乱しているが、余震で片づけか進まない。道路事情は悪く、あちこちで陥没し、マンホールが飛び出ている。電柱もあちこちで倒れている。

・ 小千谷市役所の救援物資の積み下ろしが大変で、配る人数が足りない。

・ 十日町織物業は人員もいないし、機械の修理に追われて稼動できない。小千谷市の新潟三洋電子も操業できない状態。

・ 東小千谷中学校で理容師のボランティアが、水のいらないシャンプーで避難者の洗髪をする。

震災後七日目の夜は星が輝き、月明かり。一瞬ではあるが、真っ黒で異様な雲が月を覆いうという、不気味な現象を車の中から見る。そういえば、大地震が起きた夜、広場で脅えながらみんなと見上げた空に、今まで見たことのない不思議な雲の形と流れがあった。 今夜は無事でありますように・・・・。

10月30日 (土) 晴れ

昨日、一昨日と晴天による放射現象で寒い朝を迎えたが、今朝は暖かい。 震災後、今日でまる一週間が過ぎた。今までの人生でこれほどいろんなことを体験した7日間はない。

《朝のニュースより》

・ 気象庁によると、昨日は余震か18回と徐々に回数が減少してきている。が、依然として震度6強の恐れあり。

・ 今日から新潟―燕三条が運転再開。

・ 新潟―東京間は磐越自動車道で迂回していたが、一週間ぶりに関越自動車道で正常にバスが運行。

・ 川口町和南津トンネルはいまだ不通。

・ 小千谷市では地震による粗大ごみの収集が満杯のため、今日からしない。

・ エコノミークラス症候群で現在まで6人が死亡。車での生活がきつい場合は、すみやかに避難所へ行くように。

・ 風邪やインフルエンザが流行する可能性があり、十万人分のインフルエンザワクチンを用意する。

デジカメで写真を撮りながら、勤少へ足の治療と血圧測定に行く。ゼッケンに「赤十字愛知県支部」と書かれた医療チームを見て嬉しくなり、思わず受付の人に「私も名古屋生まれです」と言う。そしたらまた偶然にもその方も名古屋生まれ。「えっ、中日球場? 山王中学? 露橋小学校? 」と、話していくうちに話が重なり、お姉さんと私が同級生ということが分かった。地震直後に診ていただいた金沢赤十字病院の先生といい、偶然がまた重なったことに不思議な縁を感じた。

10時過ぎに娘が一ヵ月後に嫁ぐ巻町のN宅へ、一週間分の洗濯物を車に積み、一緒に一晩泊まりで出かける。一週間もお風呂に入っていない私を気遣ってのお誘いで、とてもうれしい。

震災後はじめて信濃川の旭橋を渡って本町方面に向かった。軒並み倒壊した家屋や倉庫の無残な姿を目にした。娘が5日前まで勤めていたジャスコも二階が崩れ落ち、勤めていたら今頃どうなっていたかと、ヒャリ。 小千谷大橋を渡るとき、母子二人が生き埋めになった妙見堰の崩落現場を遠望し、亡くなった皆川さん母子のご冥福をお祈りする。

滝谷辺りではペシャンコになった家や、屋根に青いシートをかぶせた家が軒並みに見られ、バイパス付近まで電柱が殆んど傾き、電線が垂れていた。この辺もかなりの被害があった模様である。途中何台もの救援物資を運ぶ車や、自衛隊のジープにすれちがい物々しさを感じる。

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中之島見附を通り、分水、吉田辺りまで来ると、道も快適で一週間前に大地震で脅えていたことなど忘れてしまいそうな気がした。 その夜、N家ですき焼きをご馳走になりながらテレビを見ていたら、この地震で川口町の震度計が『震度7』を計測し、観測史上阪神大震災に続いて二番目という報道が流れた。

10月31日 () 晴れ

N家で一泊し、帰りに買い物をする。娘の友達が働いている宮内のアテーナに寄ると、天井がまだ抜けたままになっていた。

小千谷に近づくにつれ道路状態が悪く、薭生辺りでは大きく陥没した箇所が見られ、片側通行になっていた。また 高の井酒造の酒蔵も無残に壊れ、越後交通営業所の壁には大きな亀裂が入り、窓ガラスなどが散乱していた。 小千谷に戻ってから勤少へ足の治療に出かけた。伊勢赤十字病院のチームが今日は担当し、二日おきに交代していることが分かった。医師から「これくらい深い傷だったら縫ってもらった方が良かったのに」と言われ、今までになく丁寧に治療してもらった。

勤少の前で女の子たちが人形を使って遊び、男の子たちも地べたに腰を下ろし、楽しそうに話し合っていた。明るい子どもたちの 表情に慰められる。小、中、高校の体育館が避難所になっているため休校。

久しぶりにわが家で昼食をとっていると、グラッ!ときた。「こんな揺れなどたいしたことない」と夫と娘は地震慣れしたのが平然としている。私はあの恐怖がまだ抜けないのか、少しでも揺れるとドキッとする。

外出の疲れなどでニュースを聞く気力もなく、車に戻り眠った。

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東小千谷小学校グランドに車で避難する人々と、自衛隊による支援活動

11月1日 (月) 晴れのち曇り

明け方の4時35分頃、小千谷市震度4の余震があり、その30分後に震度3の揺れ。 ニュースでは「まだ当分落ち着かない状態が続いているので、6強の余震もあり得る。雨、雪のシーズンを迎え、土砂、土石流に十分注意するように」と、再三繰り返し報道されている。いつになったら安心できる日が訪れるのか見当がつかない。

土石流とは山崩れなどにより、沢などの水が堰き止められ、ダムのようになった水が急激に下流へ土砂と一緒に流れてくることを言い、そこへ地震により亀裂ができると、水が入り込み地盤がゆるんでしまうとのこと。

東京に住む長女と、長男が週末に来るという知らせあり。 家に戻り朝食をとっていると、広報車が「東小千谷小学校に給水車が来ているから来てください」と言って回ってきた。幸い小学校はすぐ裏にあるので、娘と一緒に急いでもらいに行く。

横浜市水道課の車が二台来ていて、大きなタンクから自分で入れようと蛇口をひねったら、噴水のように水が吹き出てびっくり。そばにいた職員の方が笑いながら「こうするんですよ」と親切に教えてくださった。「今日は洗濯できるくらい水が豊富だからまた来てください」と言われ、嬉しくなって娘とバケツに何度ももらいに行き、浴槽をきれいに洗って水を溜め込んだ。

太陽の日差しを浴び体調もいいので、水汲みが終わってからデジカメを携え、記録写真を撮りにでかける。

隣り合わせの東小千谷小学校と小千谷高校のグランドには、自衛隊の宿営テントと、避難生活者用のテントがずらりと並んでいる。また小学校のグランドには、避難者への自衛隊風呂が設営されている。「香川県善通寺駐屯部隊」と、書かれた黄色い旗を見て、数年前、本協会の研修旅行で訪れた善通寺のことを思い出した。女風呂で、二人の若い女性隊員が後かたづけをしていた。話しかけるとその一人が名古屋市の出身という。ここでもまた郷里の人と出会った。

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救援物資をもらう人々と避難所前にてくつろぐ子どもたち

夕食に大鍋いっぱい作った豚汁を食べながら、久しぶりにゆっくりテレビを見る。 NHKで山古志村の牛の救助もようが放映されていた。地震に耐えて生き残った牛を泥の中から必死に助け出す人たちの姿に思わず「がんばって!」と声援を送る。

11月2日 (火) 雨のち曇り

真夜中の12時頃震度4の余震あり。朝のニュースでは昨日は体に感じる地震が19回あり、徐々に少なくなってきてはいるものの、依然震度5強もまだあり得るとのこと。

今朝は比較的暖かいが足腰が痛む。やはり車の中での生活は限界なのであろうか。今日から家で寝ることにし、車の中の布団や毛布を片づけ、十日ぶりにわが家へ戻る。

今まで、車の中でラジオニュースを聞いていたが、今日からはテレビで災害情報を知ることができる。 ・ 山古志村の東竹沢辺りで、芋川が四カ所 土砂で堰き止められダムのようになり、川幅が百メートルに渡って川状態。深さが20メートルから30メートルにもなっているという。県が対策を練り、現場の脇に通路を作って土石流を食い止める作業を着手するが、大変な作業が予想される。

・ カラスが避難生活者のゴミ袋を散らかしあまりご飯をあさっている。そこへ鳶か鷲か分からないが、カラスに襲いかかって横取りしていった。 ・ このすさまじい場面を見ていたら、常に厳しい自然界で、たくましく生きている鳥たちは、大地震でうろたえている私たちをあざけ笑っているように思えた。

午後から小学校に給水車が来ているとの広報が入り、隣の小父さんと車で水をもらいに行く。そのとき大きな虹が時水城(山城)から長岡方面に架かっていた。何かいいことがありそうな予感。 帰りに勤少へ寄り、トイレットペーパー、パン、牛乳、みかん、バナナをもらう。いつも沢山の救援物資をいただき、支援してくださっている方々に感謝しながら帰る。

十日ぶりに畳の上に布団を敷き、枕元に水や懐中電灯、救急用品などを入れたリュックサックを置いて、着の身着のままでいつでも逃げ出せるよう身支度して眠る。


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11月6日、天皇・皇后両陛下が避難所を訪問される。(撮影・和田忠良氏)

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